無限の住人の設定年

 無限の住人の設定年はいつなのでしょうか。
 物語では「○年○月」といった記述はありませんが、実は年の表記がなされている部分が四カ所あります。

 一つ目は3巻第13幕。天津が「今より200年前、三河の設楽原で日本ではじめて3000挺もの銃を導入して織田信長の連合軍は武田の騎馬隊を打ち破った」と言っています。
これは1575年の長篠の戦いのことなので、物語当時はその200年後の1775年(安永四年)ということになります。

 二つ目は5巻第22幕。吐鉤群が「幕府成立から180年・・・、大名どもも今は力なく、天下泰平はゆらぐ兆しさえ見せぬ」と言っています。家康が幕府を開いたのは1603年だから、180年後は1783年(安永九年)ということになります。

 三つ目は8巻第45幕。寛政元年(1789年)の夏に大谷川の大水があり、その時に数え年14歳の砂和が子供を産み、現在は17歳であると調書に記されています。つまり物語当時は1792年

 そして四つ目は10巻第57幕。処刑される百琳を助けに来た無骸流の頭目が、「島原以降150年のこの泰平」と言っています。島原の乱は1637〜38年(寛永14〜15年)の出来事で、この回想シーンは2、3年前の出来事なので、1637〜38+150+2〜3=1789〜91年ということになります。

 3巻1775年、5巻1783年、8巻1792年・・・と、3巻から8巻までに17年も経ったことになりますが、これは明らかにおかしいです。2巻で閑馬永空が「半月後、天津は加賀へ発つ」と言っており、6巻で天津が加賀へ旅立ち、8巻で加賀に到着するからです。

 四つの中で最もはっきり述べられているのは、やはり調書からの情報である1792年。おそらく他の表記はおおまかな数字を述べただけで、この1792年が「無限の住人」の設定年でしょう。天津は217年後を200年後と言い、吐鉤群は189年後を180年後と言ったのだと思います。

 1792年(寛政三年)は江戸後期、第11代将軍徳川家斉の治世で、田沼意次の政治によって崩れかかった幕藩体制を松平定信が寛政の改革で再建しようとしていた頃。また文化の中心が上方から江戸に移り、「いき」「通」といった美意識を根底に持つ「江戸っ子」文化が花開いた頃です。

 ちなみに1792年は、ロシア使節ラックスマンが根室に来て通商を求めた年であり、物語中で幕府の吐鉤群が「講武所」の雛形である「講剣所」をつくろうとしていることとリンクしていて興味深いです。(講武所は外国船襲来の脅威から幕府が1856年に設置した武術修練所。ただし講剣所は架空)。


<追記>
 これを書き終えた後に、1巻序幕P9で教会の板壁に「神に捧ぐ 卍 天明二年」と記されているとの情報を知りました(字が小さくてうすいので全然気がつきませんでした)。
 天明二年は1782年。上記の計算では、卍が序仁魚仏を倒したのは1790年になるはずなのに(9巻で卍が「二年前、最後の身内を殺された」と言っているので)、8年も隔たりがあります。

 では板壁の落書きと調書の情報のどちらが正しいか・・・ですが、信用できるのはやはり調書の情報である1792年のほうだと思います。おそらく板壁の落書きが載っている序幕「罪人」は、アフタヌーン四季賞の投稿作だったので、作者が書いたことを忘れてしまったのではないでしょうか。


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