無限の住人年表

1740年
天津三郎が無天一流を破門される。
1781年
百琳が双子の子供を産む。
1782年
偽一の妻が死亡する。
1788年6〜10月
卍が堀井重信を殺害する。

卍が町の夫・斉藤辰政を斬る。
1789年
百琳が夫の霞江斎元京を殺す。
1790年
逸刀流の道場併合が始まる。

天津が無天一流道場を壊滅させ、凜の父母が殺される。

無骸流に真理路が加わる。

司戸菱安vs卍(1巻序幕)。
1792年6月前半
卍と凜が出会う(1巻一幕)。
7月
凶戴斗vs卍(1巻三幕)。
8月上旬
閑馬永空vs卍(2巻)。槇絵vs卍(3巻)。
8月中旬
凜vs天津(3巻)。
凜と卍が縁日へ行き、その後新夜と戦う(4巻)。

無骸流の逸刀流狩りが始まる(5巻)。
8月下旬
天津が偽装作戦の中、加賀へ旅立つ。卍vs尸良(6巻)。
9月上旬
偽書簡で火瓦が加賀へ向かい、卍と戦闘(7巻)。

天津が加賀に到着(8巻)、滞在(9巻)。
9月中旬
凶戴斗vs尸良(10・11巻)

天津が江戸へ帰る途中、刺客に襲われる(11巻)。
白川郷で天津が槇絵に会う(12巻)。
9月下旬
酒宴で逸刀流の幹部たちが殺される(12巻)。
諏訪で卍、天津、槇絵、凶、心形唐流が戦闘(12巻)。
10月下旬〜11月初め
逸刀流の生き残り10人が会合(13巻)。
卍vs偽一、偽一vs凶戴斗(13・14巻)。
11月6日
(陰暦10月1日)
卍が吐鉤群邸を訪れ、捕らえられる(14巻)。この翌日、孟膳の施術開始。
11月15日
(陰暦10月10日)
孟膳に変わって歩蘭人が不死移植実験を開始する(15巻)。
12月14日
(陰暦11月1日)
歩蘭人が四人目の死罪人・国松に施術する(16巻)

※暦は現在の新暦を使用しています



 物語中の日付の表記はまったくなく、手がかりとなったのは7巻で花田が「もう秋入りだってのに、この影の黒さ・・・」と言っていることと、8巻で密花が「孟秋(秋の初めの一ヶ月)の空気は肌に優しい」と言っていることです。

 江戸時代は旧暦(陰暦)なので、秋の初めは7月ということになりますが、7月なら「もう秋入りだってのに・・・」という言葉はちょっとおかしいし、7月の空気が肌に優しいとは思えないので、これは旧暦ではなく現在の新暦で言っているはずです。(おそらく作者はわかりやすさを重視したのでは)
つまり7巻時は9月のはじめだったと推測できます。

 また、この裏付けとして1巻第3幕の研ぎ師のセリフ「夕涼みにゃいい塩梅」、5巻の天津のセリフ「暑中のお勤めまことに御苦労」などから、1巻第3幕から5巻あたりまでは夏だったことが推測できます。
 あとは2巻の閑馬のセリフ「あと半月で天津は江戸を出て加賀へ」、5巻の凜のセリフ「あと五日足らずで天津は江戸を出る」、2巻の天津のセリフ「この二月で仲間の八人が卍によって殺されている」、9巻の卍のセリフ「二年前、最後の身内を殺された」、11巻の卍のセリフ「尸良の腕を斬ったのは半月と少し前」etcから逆算&推測して年表を埋めていきました。

 ただ、謎なのが5巻の凜のセリフ「あと五日足らずで天津は江戸を出る」のすぐあとに尸良が「実はあとひと月程で天津は江戸を出て加賀へ…」と言っていること。
 計画が変更になったという見方もできますが、卍も凜も疑問をはさまなかったし、5巻から6巻までに1ヶ月も時間が流れたとは思えないので、この「あとひと月程で」は「江戸を出る」にかかっているのではなくて「加賀へ(着く)」にかかっているのではないかと思われます。


2004年2月29日加筆(12巻〜15巻)

 14巻p166に、「陰暦十月一日昼四ツ」という日付の表示が初めて出ました。
旧暦の1792年10月1日を現在の新暦に直すと、1792年11月6日になります。
ここから逆算していって、この年表がだいたい合っていたことが確認できました。

その他に手がかりとなった主なセリフを列挙します。

・11巻p130 天津「あと四日私はここを離れることができんが(中略)恐らく十日後には向島の道場にいるだろう」。
 ──酒宴は天津が帰ってきてから催される予定だったので、酒宴が催されたのはこの日から10日後以降になります。
    また酒宴での阿葉山のセリフ「帰ってくると云った日に帰ってこぬ者が悪い」より、
    酒宴は天津到着予定日からそれほど経ってない日に催されたように感じられます。

・12巻p62 天津「明日中に白山を超えて白川まで行く」

・12巻p154 心形唐流「ほんの10日ほど前までは毎日畳の上で木刀を振っている日々だったのに」
 ──天津が道場に来た日が、これより約10日前だったことが分かります。

・12巻p183 凜「十日前までは戦う気力もあったのに」

・13巻p119 ナレーション「五日後」(凶が酒宴の惨殺現場を訪れるシーンで)
 ──これは直前のシーンである諏訪での戦闘から五日後のはずなので、
    酒宴が催された日と諏訪での戦闘の日は近いことが分かります。

・13巻p144 天津「ひと月ほど前、酒の席での謀により仲間10人の命が奪われた」
 ──つまり、逸刀流の生き残り10人の会合は、酒宴の約1ヶ月後。

・13巻p168 偽一「四年と少し前、(卍が)上司旗本堀井重信を殺害」
 ──「四年と少し前」とは、だいたい4年1ヶ月前〜4年4ヶ月前までを指すと思われます。
    このシーンは1792年10月下旬〜11月初めのはずなので、卍が堀井重信を殺したのは
    1788年6〜10月であると推測します。


<加賀編詳細>
9月?日(上旬)・・・天津、加賀に到着。
その翌日・・・・・・・・天津と密花が散歩する。
その1〜3日後・・・・天津と密花が加賀城下を見物。馬絽に「あと4日滞在する」と言う。
その3日後・・・・・・・祝言。
その翌日・・・・・・・・天津出発。覆面の刺客4人に襲われる。
その翌日・・・・・・・・天津が握り飯を凛にあげる。洞穴で寝る。
その翌日・・・・・・・・白川郷。天津が槇絵を訪ねる。心形唐流の追っ手4人を倒す。
その10日後・・・・・・諏訪の石仏前で凜が天津に付子を渡す。そしておそらく同じ日に凜が心形唐流に捉えられ、
             諏訪湖で卍と天津、槇絵、凶、心形唐流が戦闘。
その5日後・・・・・・・凶が酒宴の惨殺現場を訪れる。

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